織匠田歌 伝統工芸士曽根武勇
曽根氏は多くは語りません。職人の思いは作品に込められています。伝統的な織の技術は時の流れ中で消えつつあります。しかし曽根武勇は経済産業大臣指定伝統的工芸品12種の中で「綴」「経錦」「緞子」「朱珍」「紹巴」「風通」「捩り織」」「本しぼ織」「ビロード」「絣織」「紬」のうち「ビロード」をのぞく11種を製作することができる唯一の機屋です。多彩な技巧・技術はすべて伝統工芸士曽根武勇が自ら長き時間を費やして身に付けたいわば‘‘財産‘‘です。設計から糸選び、糸染め、整経(経糸はり)、紋紙、織、整理(湯通し)仕上げに至るまで様々な工程があります。国内産の蚕から糸を紡ぎ生まれる艶やかな糸は熟練の技術で染め上げられ計算しつくされた図案と共に丁寧に織り上げ生み出された作品を、その着心地をぜひお楽しみください。
現代の錦織の完成
京の都の宮廷衣裳などに代表される高級な錦織物は、古来より一般に普及することが無く一部の上流階級の方々の衣装として存在しました。しかし近年、衣類の自由化に従い、さらに現代風に華麗、実用的に成熟したものが求められるようになりました。「平安の古典」を訪ね、雅やかな織物へと再興され「壱千弐百の今」錦織が完成したのです。
綴れ -つづれ-
織物の中の平織りで「つづれ錦」とも呼びます。最高の芸術品といわれるように独特の爪掻きで模様を表現していく織り方で最も歴史のある手法です。職人たちは常にヤスリを中指と薬指の爪に当て、ノコギリの歯状に刻んでおき緯糸を織りこみます。多彩な模様の色糸を一本ずつ越しその都度「筋たて」という櫛で織寄せます。他の帯と比べると太めの撚糸を経・緯糸に使用します。3cm角の幅に、経糸40本緯糸140越で形成するのが綴織の基準値です。経糸の下に織り下絵を置き緯糸で柄を織っていく・・・。つまり糸で画を描くようなものです。一日にほんの数センチ程度しか織れないような複雑な文様もあり大変手間のかかる手法ですが、だからこそ機械織には出せない目の細かく繊細な表現の織物ができるのです。
経錦 -たてにしき-
経錦は文字通り経糸によって地の紋様が織り出されている錦です。つまり三色の配色による織物であれば三色三本の経糸を一組とし、これが互い表裏浮き沈み交代して地や文様を織り出しています。色数が多くなればそれだけ経糸の本数も増すことになり開口の操作も容易でなくなります。自然配色にも限りがあり、また大きな文様は織り難いということにもなります。配色に変化をつけるために地を何色かの縞にする場合もあります。経錦は何色もの彩糸を用い文様を織り出す錦の中でも最も古い歴史を持ち千二百年以上も前から織られていた織物と言われています。その発祥は定かではありませんが歴史では、中国の前漢時代(前206~後8)にはすでに高度な技術の経錦が織られていたとされ、日本では七世紀飛鳥時代の法隆寺に「蜀江錦」【しょくこうきん】が伝えられています。
緯錦 -ぬきにしき-
種々の彩糸を駆使して文様を織り出した織物で最も華麗なものの代名詞的に使われています。多くの絵緯(紋様表にだけ必要な緯糸)を用いて様々で多彩な文様を織り出した錦の織物の中には織方や紋様に応じて固有の名称を持っているものもあります。通常地を三枚綾とし、絵緯は表裏とも別搦糸で抑えた糸錦が錦地の代表と言われています。歴史は大変古く中国では漢代に遡り、奈良時代に素晴らしい発展を遂げ平安時代になると唐錦、倭錦、糸錦などと名付けられたものが織られてきました。また錦地を代表する糸錦は天平年間の製織法にならって西陣で織り始められたという記録があります。
緞子 -どんす-
織物の三原組織(平織・綾織・繻子織)のうち、繻子織(しゅすおり)を用いたものが緞子です。繻子織は三原組織の中で最も光沢に富む織り方です。繻子織は経糸と緯糸との組織点をなるべく少なくし、その組織点を連続しないように分散させます。織物の表面に経糸、あるいは緯糸を浮かせた織物です。経糸と緯糸が各五本ずつ五枚繻子の表裏の組織を地あるいは紋に用いたものが緞子と呼ばれます。緞子と綸子(りんず)はよく比較されるが、明確な違いとしては先染糸を用いた絹織物が緞子、後染め用の布地が綸子である。先染の緞子は金襴などと共に鎌倉時代に中国から伝えられ、南北朝時代、室町時代を通じ盛んに輸入されました。そのうちのいくつかは「名物裂」として現在も大切にされています。
朱珍 -しゅちん-
繻子は通常五枚繻子のものが多いですが朱珍は七色以上の緯糸を用いた七糸緞と呼ばれたものが転じたといわれています。経糸、緯糸とも同一色で表したものが緞子で、多色の絵緯と呼ばれる緯糸で文様を織り出した織物を朱珍と呼びます。なめらかに艶のある地の繻子組織に幾重にも絵緯の杼を持ちかえて色彩豊かに様々な文様を現した華やかさと、金銀箔を引き入れた豪華さも備えています。朱珍が織られるようになった歴史はそれほど古くなく始まりは室町時代に入ってからとされています。江戸時代になるとその独特の美しさに魅せられ江戸中期以降は能装束、打掛やご婦人の帯になくてはならないものになりました。
紹巴 -しょうは-
経糸、緯糸ともに強撚糸を用い細かい横の杉彩状または山形状の地紋を持っています。地は厚くなく以前は羽織裏などにしようされました。二重の経糸で緯糸を包むように織り上げるため滑らかで平面的な地風です。 綴れ織りに似ているとも言われますが繊細な柄を織り出したものが多く、しなやかで軽くて締めやすい帯地であることから着物好きな方に人気があります。紹巴の歴史については明確な史実がありませんが、「名物裂金襴」の中にみられる紹巴裂は千利休の高弟である里村紹巴が好んだとされ、西陣で製織されたとされています。
風通 -ふうつう-
一般の織物の断面は一重ですが風通織をはじめとする二重織物や三重織物の場合その断面はそれぞれ二重、三重になっていて多層織物と呼ばれます。風通織は多層織物の代表と言われるもので織物の表裏にそれぞれ異なる経糸(たていと)を使って二重組織にする二重織の技法です。上下あるいは上中下それぞれの色の異なった織り方を交互に表面に出して模様を現します。二重組織となっているため表裏の文様が反対の配色になります。二重になっている中を風が通るという意味から風通という名前が付けられました。風通組織は法隆寺伝来品の中にあり古い歴史を伺わせます。
捩り織 -もじりおり-
織物の経糸は互いに平行し、緯糸はこれと直角に交差して布を形成するのが普通ですが捩り織物は捩り経糸が緯糸一本または数本ごとに地経糸の左右に位置を変えて組織し緯糸と経糸との間に隙間を作ります。製織の際には地綜絖のほかに捩り綜絖と言われる特殊な綜絖が必要です。搦み織ともいわれ、紗・羅・絽が代表です。隣り合う経糸が絡み合ってまるで編み物のような特色を示し、その最も複雑な様相を現すのが羅です。羅は捩り織の中で最も古いものと考えられ正倉院には多種多様のものが伝えられています。
本しぼ織 -ほんしぼおり-
経糸、緯糸ともに練染した絹糸を用い、経糸は甘撚り、緯糸は練糸を適度な太さに引き揃え、下撚りをかけて糊を施します。これがまだ乾かないうちに強撚りをかけた御召緯(おめしぬき)とよばれるものを用います。御召緯は右撚り、左撚りを二越ずつ交互に織り込み、製織後ぬるま湯に浸して強くもみ布面にしぼを出します。しぼの立つ絹織物には縮緬や御召などがあり、西陣では江戸初期より本格的な生産が始まりました。御召の名称は徳川十一代将軍家斉公が納戸地に細かい格子の縮緬を好んで着用したためにこの種の先染縮緬を「将軍家のおめしもの」の意で御召縮緬あるいは御召と呼ぶようになったと伝えられています。
絣 -かすり-
経糸と緯糸を部分的に防染し平組織に織り上げ文様を現したものを絣と呼びます。その由来はインドに発生しタイ・ビルマ・ジャワ・スマトラなどの東南アジアから沖縄に伝播しやがて日本に渡来しました。北インドからペルシャそしてヨーロッパにも伝えられたとされています。日本最古の絣は法隆寺に伝来した六~七世紀の中国の裂で、配色や文様など異なる数種伝えられています。中には絹の経絣で赤基調の色彩、山岳立ち上る雲気風の文様は太子間道とよばれ名高いものもあります。西陣では御召の矢絣、能装束の段替り、熨斗目の腰替り部に配された文様に絣の技術が生かされました。